66記念ニュース第3弾!ダンカンの日本社員を紹介します。

オープンなようで業界外にはオープンでないセミ・シークレット?を公開!

2011年のそろはむ創業時、自分自身でもう一つ大きな決断をしました。会社創業と同時にヨーヨーの歴史を作ってきたといっても過言ではない、ダンカンの社員になるというオファーをしていました。前の会社ではダブルワークは認められなかったことも起業、独立の一つのきっかけになりました。ダンカンとの関係は非常に長く、初代ダンカンクルーの選定から商品の開発関与、フリーハンドMGの企画などダンカンと関係が深いことは周知の事実だったかと思います。

自分自身のヨーヨー界における役割は当時から年上だったこともあり、その時点で周りの人が理解していなくても俯瞰した視点を持つように心がけ、誰かがいるポジションで同じことをして争うのではなく、まだ手がついていない分野で自分にしかできないことをしていく、というスタンスでずっと続けてきました。オフストリングに走ったのも、APに走ったのも、メインストリームで技術を発展していくことは若い人たちがやってくれるけど、まだ他の人が関心を持っていない分野でヨーヨー界にとって意味があると思えることを自分なりにチャレンジしてきた結果です。

1997年3月にアレックス・ガルシアのヨーヨーさばきを見てヨーヨーに魅入られてから他の誰よりもヨーヨー漬けの生活を送り、毎日ヨーヨーのことを考えてきていると思っています。最近はインスタグラムが独楽しか無い時期もありますが、SNSで表に出せない仕事の内容はそろはむとダンカンの仕事に加え、時期によっては様々なブランドやプロジェクトに関わって並行してきていて、それは年をとったらいつか語ろうと思っていますが、水面下では今も昔も変わらない情熱で毎日、ヨーヨーに取り組んでいます。趣味として他のホビーが全面に出てしまっているだけでステップ2のようにすぐには形にならない企画も,ある日突然出来上がるのではなく絶え間ない努力の結果が形になるに過ぎません。

ダンカンと自分との関わりを明確にしてこなかったことで近年の表面的な動きだけからするとスピンギアや私自身がヨーヨーに情熱を持っていないと感じる方もいらっしゃるのではと思うに至り、ここでお知らせをさせていただきます。

ヨーヨーメーカーとの関わりはヨーヨーキャリアをスタートした時点で、ターミネーターオフィシャルインストラクターという”メーカー側”の人間の視点でスタートをしてきました。ただヨーヨーを生活の糧とするための手段と捉えるよりはライフワークとして、メーカーとユーザーの間の立ち位置でヨーヨーに対する情熱をメーカー側の行動に反映させるような流れを作ることを心がけて来たつもりです。

99年から始まったヨーヨージャムとの関わりは、シグネチャーモデルの設計、アドバイスを通じて多くのラインナップに影響を与え、ヨーヨー発展に少しでも寄与できたのではと思っています。チームメンバーでもないのに社長の家に何回も泊まりに行き、工場まで行き、製品開発に関われたのは自分にとっては貴重な糧となりました。

また黎明期のヨーヨーファクトリーと龍888発売や、ブッタキング、マイティーフリー、プロトスターコンセプト提供などを通じ、役割を見出してきました。BグレードTシャツを企画したり、スピンギアカラー(オレンジと赤)をロゴに落とし込むなど新しい試みもしてきました。

各ブランドともヨーヨー輸入業者、ショップという枠を超えて深い関係を築いてきたことで66%というブランドの立ち上げにも多くのブランドの賛同を得、まだ発表できていませんがオファーいただき、待っていただいているブランドがいくつもあります。

その中でもどかしいことがありました。スティーブブラウンで一時代を築き、ダンカンクルーが一世を風靡したものの、スティーブがダンカンから去った後は”一般企業”になっていたダンカンです。

近代ヨーヨーの父、ドナルドFダンカンが創業し、ヨーヨー界で一番期待されていながら中々動きが取れていませんでした。ダンカンの中にヨーヨーのことが分かる人がいない、という状況が続いていました。

ヨーヨーの世界を変える力を持っていながらその力を使いこなしていないように感じた私は以前からのデモンストレーターや開発アドバイスという関係性を超えて、ダンカンの中からできることから問題を解決していけないだろうかという思いで関わりを初めています。もちろんダンカンで働きだしてから物事が全てすぐに変わるかと言うと巨大なFlambeau社の中での動きと連動して思うように動けない部分もありますが、少しづつなにかが変わってきているとは思います。

ヨーヨーの世界大会が2つに分かれそうだったときも、ヨーヨーマスター、アジアの代表としてのポジションに加え、ダンカンというメインスポンサー側からの視点でも関係各所との調整に奔走しました。IYYF立ち上げからしばらく籍があったのもその功績が評価されてのことです。

携わった業務内容、プロジェクトに関しては契約上、すべては開示することはできないのですが、社員になる以前のProZの設計からダンカンのキャリアをスタートさせ、プラスティック機種、メタル機種の多くに携わってきています。もちろんその間、ブランドンジャクソンやアーギー、そして今はブライアンと素敵な仲間たちとヨーヨー界に向けての企画で関わる部分もありますがダンカンでの自分の役割は中国を始めとするアジア市場の営業と商品開発、新規商品のリサーチなど日常、表に出していけないいわゆる”普通の仕事”の部分のウエイトが多くしめています。

年間を通じて多い海外出張のいくつかはダンカンの仕事で行っています。

ヨーヨー業界的なことで言うと、皆さんから見えているダンカンの動きの殆どは今はチームマネージャーのブライアンの仕事なので、私がダンカンで働いているということで、ダンカンというブランドに対するイメージが変わらないでいてもらいたいとは思います。クルーのときも、チームに組織変更したときも、社員でしたが、表に出ずに裏方に徹していたのはそのような理由があります。中国ではダンカンのメインキャラクターとして活動していたので中国では、DANCAN=TAKAというイメージが業界にはありますが。

というわけでTAKA個人の2018年の立ち位置と今までやってきたことの一部を報告させていただきました。これからもダンカンはもちろん、スピンギア、そろはむをよろしくお願いします。ダンカンの新製品情報、突っ込まれても答えられない事が多いので今までどおり普通に接してもらえればと思います!ただスピンギアでちょっとフライングくらいで様々なプロトや新製品が見ることができる機会は増えるかも知れません。

次の項ではスピンギアがヨーヨー専門店ではなく、スキルトイ全般に移行していっている理由も紹介していければと思います。

すべては66のために!